2005年12月12日 (月)

素晴らしいエッセー

このエッセイは 種まく子供たちという 小児ガン・難病の子供たちを応援するHPを 運営されておられる 佐藤律子様と 迫先生のご好意により掲載をさせていただきました。

大きな衝撃を受け 悲しみの淵に沈んでいるご遺族の 着地から癒しへ向かう道筋が 出来るだけ穏やかな道となるように 患者さんとそのご家族への 深い愛情が感じられる 迫正廣先生のエッセイ 
>私はそれ以後、死者への礼を尽くす死後処置の具体的な行為として、
>体を温かいシャワーで洗ってあげることを家族に申し出ている。
このシャワーの部分を拝読したとき 本当に大きな衝撃を受けました。何と素晴らしい このようなことをしていただければ ご遺族はどれほど心癒され 温かい気持ちになれることかと思いながら 何度も何度も読ませていただきました。
また そんなことをしてくださる看護婦さんの お心もまた温かいもので満たされているのではと 熱いものがこみ上げてきました。
死者として扱うのではなく まだご遺族にとって生きているように感じている時に 生者として 最後のときを過ごした病院で受ける温かいシャワーの奉仕が ご家族にとってどれほど嬉しいものであるか・・・・・
多くの方々に お読みいただきたい 素晴らしいエッセーです。

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死者への礼

          迫正廣(大阪市立総合医療センター・小児内科) 

 明治という時代を濃厚に背負っていた九十二歳の祖父が入浴中に 風呂の中で亡くなった時、「頑固者のおじいさんは自分で体まできれいに洗って、誰にも迷惑をかけずに亡くなった」と、周りの皆がそう思い、そう言ってはなぐさめ、なぐさめられた。

 頑固は祖父にとって生まれ育った時代精神のすべてであったが、価値観の多様化していく時代に生まれ育った世代にとっては一部分でしかなかった。
しかし、遠くに離れて住んでいる私には、それがある意味でdignityとして輝きを持っており、それ故に、親族の精神的支柱でもあった。浴槽での死もまた、dignityというイメージと対になって思い出されるのである。

 このように死がdignityに彩られた場合、遺族の悲しみは癒されやすいのではなかろうか。
したがって、葬送儀礼は死者のみならず生者のためのものでもある。尊厳死が声高に叫ばれている現在、医療者は、患者さんの尊厳への気配りのみならず、死に対しても、死者への礼を尽くすことにより、生者の心の平安に寄与できるのではないだろうか。
 私は、長年、小児血液腫瘍患児の診療に携わって、多くの死を見送ってきた。順番の狂った子どもの死は、人生の中でも最も大きな不幸の一つである。悲しみのあまり家から外へ出られない親もいるそうである。(1)
 家族にとって、子どもが亡くなってからの人生は、闘病中の時間よりもっと長いのであり、不幸を引きずらないように考えてあげることは、治療行為そのものと同様に大切なことである。
 血液腫瘍患児には、骨髄移植というような死と隣合わせのような治療が必要な時がある。
大量の抗癌剤や放射線治療に耐えきれず、あるいは重度のGVHDにより命を落とすこともある。
 約三年前のことである。、一人の白血病の子どもが骨髄移植後の合併症で移植後三ヶ月で亡くなった。下痢、多臓器不全。皮膚粘膜症状がひどく、世話をしていた受け持ちの看護婦さんは、いつも体を拭いてあげながら、お風呂に入れてあげたいなと思っていたそうである。
亡くなった時、「お風呂に入れてあげてもいい?」と相談された私は、それはいい考えだと即座に賛成した。
もちろん家族も賛成して、風呂場にストレッチャーで連れていき、看護婦さんとお母さん、お姉さんとで温かいシャワーと石鹸できれいに体を洗ってあげたのである。
 風呂場から出てきたお母さんは、
「お風呂が好きだった子どもをきれいに洗ってあげられて本当によかった。こんなにきれいになった」
と、自分の悲しみまでも洗い流したような、すっきりとした顔を見せてくれた。
自分が洗われた気持ちになったのだろうと思う。母親自身、そして血を分けた兄弟が一緒に洗ってあげたということに大きな意味があると思うのである。
 私はそれ以後、死者への礼を尽くす死後処置の具体的な行為として、体を温かいシャワーで洗ってあげることを家族に申し出ている。
ほとんどの家族が同じように希望される。家族が看護婦さんと一緒に、子どもの好きだった歌を歌ってあげながら、あるいは、よく耐え忍んだがんばりを称えながら、長い間風呂にも入れずにいた闘病の日々の垢を洗い流し、清めてあげるのである。
ある意味では、家族にとっては心理学的にも文字どおりのカタルシスになっているのではないかと思われる。
 身体の温もりが残っている間はまだ生の延長の範囲内にある。
ひんやりした死体の持つ冷たさと硬直は、生者と死者を隔てる生理的な壁となる。
実際、冷たく硬直した死体を扱うことは看護婦さんにも抵抗があるそうである。
したがって、亡くなった後、家に帰るまでの間に病院で行うことは、どんな人にも心理的抵抗がなく、もっともいい時期であると思われる。
後日挨拶に来られる家族の話を聞く限り、シャワー湯浴をしてあげたことは非常に好評である。
 病院で普通に行われている死後処置は、看護婦さんがアルコールで清め、鼻、口、肛門に脱脂綿をつめ、死に化粧をほどこすものである。
これに対して、シャワー湯浴が大幅な手間をとるとは思われない。
私は、多くの病院でこうした処置が行われたらいいと思い、このような拙文を書いているのだが、あるいは、私が知らないだけで、すでに多くの病院で行われているのかもしれないーーー。
 もちろん、このような行為で家族の悲しみがすべて払拭できるとは思わないが、それが死者の尊厳を高めることに役立ち、遺族の心の平安につながるのなら、病院・医療者の最後の役目として積極的に行ってもいいのではないかと思う。
人間の心の平安を金銭に換算することは困難であろうが、多くの病院でこのような処置が行われた場合、マスで考えると、簡単な行為による費用対効果は十分すぎるものになるのではないだろうか。
 死後のシャワー湯浴は入浴・清潔好きの日本人には自然な感情として気分的に受け入れやすい処置と思われるが、実は日本には伝統的に入棺する前に死者の体を逆さ水で洗い、身を清める湯灌という行為がなされていたことを知った。
また、同様に遺体を洗う行為はイスラム、ユダヤ、スリランカ、ミャンマー、中華人民共和国等でみられる習慣である。(2)
 このことは、人類共通の自然な感情から由来していることかもしれない。
ただし、司馬遼太郎氏によるとモンゴル人は沐浴をしないそうである。(3)
 『日本民俗大辞典』(4)によると、湯灌とは入棺する前に死者の体を逆さ水で洗うこと、死者を僧にする前に沐浴させて身を清める行為とある。
藁縄を襷として死者を盥に入れて髪を剃り、列座の近親者が左ひしゃくで水をかけた。
 大阪府泉南郡では同行(念仏講)の仲間が湯灌をする。愛媛県宇和地方では、死者と血縁の濃い人が左縄の襷と帯をして、畳をあげ床板に荒筵を敷き、線香をたくさん焚いて、「ええと行きなされや」と言って死者を起こし行う、とある。
 また、平凡社の『世界大百科事典』(5)によると、湯灌は本来血縁者の役割であったが、葬儀一般が村落共同体の互助組織の中に取り入れられるに及んで、近隣の者が手伝うことになり、また死の穢れを嫌うあまりに、これらの仕事を特定の階層の人々にまかせる風を生じた。
湯灌は、汚れを除くという実際的な必要の他、霊魂復活の意味があったらしく、若水や産湯の慣習と合わせて考えるべき問題である、とある。
 この点、青木新門氏の『納棺夫日記』(6)は、自らの納棺夫体験を通して死を深く思索した実に感銘深い著書である。
氏によれば、死や死者にまつわる一切が不浄なものとされる日本の文化の根源を、「折口信夫や柳田国男から始まるわが国の民俗学者たちが、各地の風俗習慣や冠婚葬祭の儀礼文化を調べていくと、最終的には〈ケガレ〉と〈ハレ〉というアメーバのような原始的な思想に行き着く」と書いている。
 私は、個人的体験として今まで葬送儀礼としての湯灌の場に立ち会った経験もなかったので、湯灌とは土葬や坐棺といった時代のもので、それらがほとんどなくなった現在、このような習慣はすたれてしまっているのだろうと思っていたが、インターネットで調べると、湯灌サービスがビジネスとして存在しているようである。
それによると、「湯灌とは日本古来から、故人の現世でのケガレを洗い清め、来世へお導きいただけるよう行われていた、遺体処理の儀式です。
ーー現在では喪家の御希望に応じて専門の業者が専用湯槽や機材を用い、御遺族の目の前で行う。
足元から胸元へひしゃく(手桶にて)湯をかける逆さ水の儀式を行う。
ーー費用七万円」とある。
 逆さ水に代表されるように葬送の儀式においては通常と反対のことをするもののようである。
一般的に伝統や風習にはそれぞれの存在意義があるものであるが、青木新門氏は
「私がこの葬送儀礼という仕事に携わって困惑し驚いたことは、一見深い意味をもつようにみえる厳粛な儀式も、その実態は迷信や俗信がほとんどの支離滅裂なものであることを知ったことである。
人々が死をタブー視するのをよいことに、迷信や俗信が魑魅魍魎のようにはびこり、入らずの森のように神秘的な聖域となって数千年前からの迷信や今日的な俗信まで幾重にも堆積し、その上日本神道や仏教各派の教理が入り交じり、地方色豊かに複雑怪奇な様相を呈している」と書いている。
 実際、地方により湯館を行う者は様々である。逆さ水の解釈も、盥に水を入れて後から熱湯を注ぎ適温にすること、足元から胸元へひしゃく(手桶)で湯をかけるのを逆さ水の儀式という等様々である。
 シャワー湯浴は、いわゆる逆さ水を使うわけでもなく、本来の湯灌の儀式からすれば似て非なるものである。
しかし、「湯灌というのは、長い間寝たきりの状態で死亡した死者を送り出す時、せめてきれいな体にしてあげようと、全身を洗い清めた風習である」(6)というように、死者に対する思いは同じである。
むしろ大切なことは、日本人が古代から行ってきた葬送儀礼に込められた死者への礼の本質を探り、現代的意味を見い出し、取り入れていくことであると思われる。
 おそらく、人間的な自然感情から生まれた行為も、儀式化するうちに愛を失った部分もあるのではないだろうか。
死者への礼として、愛する人が愛をこめてきれいに洗ってあげたら、それが最もいいことだと思う。
医療者はその場面においてイニシアチブをとれる立場にいるのである。
(参考文献)
(1)才木クレイグヒル滋子:『闘いの軌跡』、川島書店、1999年。
(2)松●弘道:『世界の葬式』、新潮選書、1991年。
(3)司馬遼太郎:『風塵抄 一』、中央公論社、1996年。
(4)林 英男:『日本民俗大辞典』、吉川弘文堂、2000年。
(5)『世界大百科辞典』、平凡社、1981年。
(6)青木新門:『納棺夫日記』、文春文庫、1996年。
   (大阪市立総合医療センター・小児内科) 

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